プロレス界に衝撃が走ったのは、2017年5月4日のこと。プロレス団体「DDT」豊中大会、6人タッグマッチで高山善廣が回転エビ固めを行った際、謝って頭を打ち付け、そのまま動けなくなった。救急搬送され、後日、医師から「頸髄(けいずい)損傷および変形性頚椎(けいつい)症」という診断結果が発表された。
関係者からのコメント。「意識はあるが、首から下の感覚がなく、人工呼吸器をつけて呼吸をする状況でした。現在、自分で呼吸できるようになり、ICU(集中治療室)からHCU(準集中治療室)に移り、8月中旬に関東の病院に転院。自分で呼吸のできる状況です。ただ、肩から下の感覚が戻っておりません。お医者様からは『(身体の)回復の見込みは現状ない』と言われております。本人も絶望を口にしている状況でしたが、少しでも望みを持って、リハビリを行っております」。
出典:https://ameblo.jp/takayama-do/
一時は心停止したが死の淵から蘇った。高山選手の現状は非常に厳しいものであった。
高山選手が主戦としていた団体DDT とプロレスラーの有志が中心となり、支援団体「TAKAYAMANIA」が設立された。多くの団体の会場では募金箱が設置され、彼の勇姿を再び見たいというプロレスファンからの気持ちが集められている。
TAKAYAMANIA募金はこちら
【銀行振込】
東京三菱UFJ銀行 代々木上原支店(店番号)137
口座番号:普通預金 0057767
口座名義:株式会社 髙山堂
高山選手もコメントを出した。
「この度は私、高山善廣を支援していただく会を発足していただき、また、その発表にお集まりいただきました皆さんに、感謝いたします。去る5月4日、試合中、頚椎を痛めてしまい首から下が全く動かず、また呼吸もできなくなってしまいました。首の手術を受けた後、心臓停止などのトラブルもあり、術後の経過が思わしくなく、なかなか皆さんにご報告できる状況にありませんでした。そんな私のために仲間たちが集まって、私のために色々とやってくれると聞き、感謝の気持ちしかありません。
みなさん、どうもありがとうございます。私もどんどんアイデアを出していこうと思っております。リハビリ頑張りますので今後ともよろしくお願いします」
リングに戻れと酷なことは言わない、ただ、ファンの誰しもが、あの巨体を揺らしながらのっしのっしと歩く姿をもう一度見たいはずだ。今回の記事で最も伝えたい情報は以上。ただ、それだけでは忍びない。そこで、一人の格闘技ファンとして高山善廣について少し触れる。私は会場で、デビュー時からたびたびファイトを見てきた。
身長196センチ
高山善廣は、一度はサラリーマンをやっていた。しかしレスラーへの夢を捨てきれず、高田延彦を中心とした団体UWFインターナショナル(※以下、Uインター)に所属する。
Uインターは、従来のプロレスとは少し異なり、ショー的要素を極力省いた、キックと関節技を主としたファイトスタイルで人気となった。
高山は、196センチという大男で、現在のプロフィールでは体重125キロとあるが、26才デビュー時はかなりシェイプされており、おそらく100キロもなかったと思われる。これは太れなかったわけではなく、動きに俊敏性が必要だったため、あえて大きくはしなかったものと思われる。
長髪を後ろで縛り、色黒で手足が長く、均整の取れた肉体は見た目に美しかった。ただ、私とよく観戦に行った女の子は「顔が怖い」と言っていた。眼光が鋭かったのだ(笑)。女性人気はそんなになかったと思うが、とりわけ男性からは人気があった。というのも、身長の高さから大物感を漂わせていたのは確かで、高田延彦以外の所属選手には高身長の選手が少なく、その中で線は細かったが身長のある高山だけは、ゲーリー・オブライトやベイダーといった大型の外国人レスラーと並んでも見劣りしなかった。
細かった高山の身体が、徐々に膨らんでいったのは新日本、全日本のリングに上がるようになってから。幼少の頃から患っている気管支喘息の薬の副作用が原因ともされるが、王道のプロレスファイトにシフトチェンジするには悪いことではなかったように思える。
‘95年9月に、Uインター神宮球場大会で全日本の川田利明戦を観に行った時は、けっこう大きくなったと間近で見て驚いた。試合には負けたが、これを機に全日本にたびたび参戦するようになる。総帥G馬場は、特に体が大きく見栄えする選手が好きで、高山はとても気に入られた。トップロープを跨いでリングインするパフォーマンスで観客は沸き一瞬でハートを掴む。こんな選手は日本人で唯一無二である。
‘96年Uインター解散後、全日に所属したこともあったが、結局フリーとなって様々な団体へ参戦。体重が110キロを越すような巨体になったのは2000年以降ではなかっただろうか。
伝説のドン・フライ戦
彼の名声を一気に高めたのは、2001年6月23日PRIDE・21ドン・フライ戦だ。
この対決、元々は高山ではなく、メイクされていたマーク・コールマンが欠場となったため数日前に舞い込んだオファーを受けたものだった。なので、互いに相手の研究をする時間もあまりないままに挑んだらしい。それが伝説のガチバトルとなった。
ゴングが鳴り、フライがパンチを繰り出す。高山が応戦しつつキックを試みるも、フライが顔面狙いで連打してきたため、互いに左手で相手の頭を掴み、ノーガードで右の拳の殴り合いとなる。クリンチして倒れる場面もありつつ、ブレイクしてまた殴り合い。試合は1ラウンド6分10秒TKO(レフリーストップ)で、ドン・フライの勝利で決着する。2人が放ったパンチの合計は約230発。これほど勝者も敗者も関係なく両者が讃えられた試合はないかもしれない。それほど壮絶で清々しいファイトだった。
高山の顔面はボコボコに腫れ上がり、顔の一部は未だ歪んだままだという。
フライは、顔のダメージは高山ほどではなかったが身体の数カ所を故障していて、のちに肩を4回手術、腰も手術し、そのたびに数週間動けない日々を過ごした。足が痺れて倒れることも度々あったという。
今回の高山のケガのニュースに心痛めアメリカからエールを送っている。
その壮絶な試合は動画サイトで探せば見られるが、今でも特に海外からの反響が凄く書き込みが耐えない。誰が見ても心揺さぶられるあのパンチの応酬は、日本の格闘技史に燦然と残るシーンと言って過言ではない。余談だが、この試合以降、高山のファイトマネーは大幅に跳ね上がったという。
みんなが待ってるぞ!
プロレスファンならご存知だろうが、高山は、2004年8月、大阪で行われた新日本の佐々木健介と対戦したあと、脳梗塞で倒れている。緊急手術を受け、選手生命も危ぶまれたが、驚異的な回復力と壮絶なリハビリを経て2年後にはリングに復帰する。しかし・・・今度はさらに重症だ。
高山に限らず、いつもはいかつく恐ろしいイメージのあるレスラーも、リングを降りればファンを大切にして笑顔で接する優しい人が多いものだ。ずいぶん昔、おそらく現在の奥様だと思うが、ある駅前の通りを仲良さそうに寄り添って歩いているところを見かけた。でかいのですぐわかった(笑)「けっこう優しい目をしてるんだな~」と、ちょっと驚いた記憶がある。
テレビでは、解説者として話すことも多かったが、現役レスラーらしく「こいつの技、見た目は鈍臭いけど、これが効くんだよ」などと、ライバル選手をディスりつつもリスペクトするリアルなコメントで人気が高かった。
そんな彼の人柄をもよく知る、高田延彦、鈴木みのる、小橋建太、秋山準、など多くの盟友がTwitterで“高山ガンバレ!”と叫んでいる。
高山!なにやってんだよ、必ず元気になってまた杯を交わすぞ、安生、田村、桜庭、ヤマケンらみんなでな、あの時みたいに、約束な。
— 髙田延彦 (@takada_nobuhiko) 2017年9月4日
絶対に完治するとを信じている。そしてまた、人差し指をかざして「行くぞ!ノー・フィアー!」と叫び凄む姿が見られると信じている。
今こそ全国のプロレスファンのチカラを貸してくれ! 高山善廣 「ご報告及びお願い。」
— 鈴木みのる (@suzuki_D_minoru) 2017年9月4日
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