替え玉、抜け道あたりまえ!大正時代の「箱根駅伝」はお騒がせ事件の連続

2016/01/02
放送作家 イチカワ

今年で第92回を迎える箱根駅伝。

そんな長い箱根駅伝の歴史の中でも、大正9年(1920年)に始まってから数年間は、とんでもないお騒がせな事件が多く発生していた。

 

本日は、大正時代に起きた、今の箱根駅伝では考えられない出来事をいくつか紹介したい。

第1回大会(大正9年)…山道ショートカット未遂

第1回大会に向けて、参加4校はそれぞれ事前合宿を敢行。

箱根の山道を念入りに調査したという。

 

その目的はなんと、ショートカットできる“抜け道”探し。

というのも『箱根の山道はどんなルートを走っても良い』という、今では考えられないルールだったからだ。

そこで各校10~12か所の近道を発見し、レースに挑んだ。

 

ところがこの大会、「学生なら午前中に勉強してから走るべき」ということで、午後1時にスタート。

山登りの5区のころには、すでに夕刻で真っ暗だった。

 

箱根山の夜は、オオカミが出ると言われていた時代。

地元の青年団が、道に迷って小道に入っていかないよう、タイマツを持って各校の選手に伴走。

さらにポイントごと、通過を知らせる鉄砲が放たれた。

 

結局、誰も抜け道は通れず、ショートカットは未遂に終わったという。

第2回大会(大正10年)…巡査が起こした日比谷大混乱

日比谷交差点で、熱狂する駅伝ファンの整理を担当したのは、駅伝が大好きな前田巡査という人物。

愛する駅伝の仕事で、適任のはずだった。

 

ところが……大会当日、選手が姿を現すと、誰よりも熱狂してしまった前田巡査。

なんと仕事を放棄して、選手と一緒に走り出してしまった。

 

熱い気持ちが沸騰し、選手が来るたび走ってついていったため、警備はメチャクチャに。その結果、日比谷交差点は大混乱に陥ってしまったという。

 

ちなみにこのあと前田巡査は、この混乱の責任をとったのか、警視庁を退職した。

第3回大会(大正11年)…中学生こっそり出場事件

事件を起こしたのは、この年初出場した日本大学。

10人の選手のうち4人を、中学生(今でいう高校生)に走らせた。

理由は、10人の選手を揃えることができなかったから。

 

苦し紛れの策だったという。その結果、記録はトップから約4時間38分遅れの最下位。

ちなみにこの件で、なぜか日大は処分されず、中学が半年間の出場禁止を食らってしまった。

第6回大会(大正14年)…箱根駅伝史に残る替え玉事件

日本大学が、3区の選手として替え玉を走らせた、箱根駅伝の歴史で有名な事件がある。

走ったのは、普段は人力車をひいている、大山さんという車夫。バイト代を出して走ってもらったという。

 

東京の人力車業界では有名な足の速さだったそうで、あっという間に4人をごぼう抜きした。

ただ大山さん、車夫だということが簡単にバレた。

なぜなら、腕をまったく振らず、ピッタリ腰につける車夫らしい走り方だったから。さらに抜くときは「アラヨーッ!」という、車夫独特の掛け声をあげていた。

 

この結果、日大は翌年出場停止となった。

 

ちなみに車夫の大山さんにタスキを渡した日大の2区は、前田選手というランナー。実は彼、日比谷を大混乱させた、あの駅伝大好き巡査!。

 

警視庁を退職したあと、駅伝をやるため日大へ入学して、退職した翌年の第3回大会から、箱根駅伝に出場していた。

 

この頃すでに“駅伝お巡り”と呼ばれるほど有名になっていた前田選手。なんと区間新記録をマークする快走で、大学での駅伝生活を締めくくった。

 

こんな感じで、だいぶメチャクチャだった、大正時代の箱根駅伝。

 

他にも大正から昭和初期には「自動車に乗って何キロもワープした」とか「抜け道を走ったことで、スネを草に切られて傷だらけになってバレた」とか「近道を通ったら、いつの間にか前の選手を抜いていた」などのエピソードも。

 

混沌とした時代を経て、今の箱根駅伝があるんです。

 

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陸上競技マガジン 2016年1月号
ベースボール・マガジン社
駅伝大特集 箱根駅伝、全国高校駅伝、実業団駅伝 展望&別冊付録

 

※他参考文献:「箱根駅伝小史」「日本列島駅伝史」

 

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放送作家 イチカワ
この記事を書いた人

放送作家 イチカワ

放送作家。1979年生まれ。静岡県出身。 ゴールデン帯の情報バラエティ番組などを担当していますが、生活の知恵にも、人生の糧にもならなさそうなことでも、ふと気になったことを書いてしまうのは、仕方ないと思っています。

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