1月2日・3日に行われる、新春の風物詩『箱根駅伝』。
『箱根駅伝』がはじまる3年前に開催された日本初の駅伝は、とてつもなく過酷なイベントだった。どう過酷だったのか、とんでもエピソードをいくつか紹介したい。
はじまりは読売新聞社のPRイベントだった!
日本初であり、世界初の駅伝が行われたのは1917年。
東京・上野の不忍池畔で行われた「東京奠都(てんと)五十年奉祝博覧会」という、東京に都を定めて50年を記念するイベント内の一企画だった。
つまり、駅伝は競技として生まれたものではない。
企画したのは、当時まだ発行部数5万部だった読売新聞社。
発行部数が多い他の大新聞社に負けない企画を練る中で、東海道五十三次を実際に走ろうと考えた。
それは博覧会の会場・不忍池畔をゴールに、3日間で516km・23区間を、夜中も走り続ける東西対抗戦(東は東京チーム、西は愛知チーム)。
24時間テレビを遥かにしのぐ規模の、超過酷なイベントだった。
過酷ポイント①寒すぎた浜名湖
木曾川や天竜川など4つの川と浜名湖は、橋がなかったため、船頭が漕ぐ渡し船で渡った。
船なので“らくちん”かと思いきや、浜名湖では強い雨風にさらされる凄まじさ。
走る途中で約1時間、止まって受ける雨風は寒く、渡ったあと10分間、暖をとることが許された。
過酷ポイント②リタイヤは次の人が迎えに来るルール
関東チームの13区の選手が、出発して4km弱で左足のアキレス腱を切って歩けない状態に。
今の駅伝なら棄権だが、当時はなんと、次のランナーが迎えに行くルール。
14区のランナーが、13区の選手がいる場所まで車で行き、その地点から14区の最後まで合計約41kmを走破した。
ほぼフルマラソンという激しさ。
また、関西の22区の選手は、川崎の中継所手前600mで倒れた。
理由は空腹で力尽きたため。走るだけでも過酷だったのかもしれない。
過酷ポイント③もみくちゃになりながらゴール
アンカーが走った東京は、盛り上がった群衆で大混乱。
特に品川のあたりでは、道路の両脇から人が溢れ、ランナーを何十台もの自転車が併走。
さらにそれまでの区を走ったランナーも、帰らずついてきたためどんどん増殖、アンカーの後ろはランナーの行列に。
市電が通れなくなる大混乱が起き、関東チームのアンカー・金栗四三(かなぐりしそう・日本初のオリンピック選手)は、人ごみの隙間を見つけて、ジグザグに走ってなんとかゴールへたどり着く過酷さだった。
ちなみに箱根駅伝を始めた目的も過酷
ちなみに箱根駅伝は、長距離ランナーの育成のほか、もっと過酷な目的で作られた。
それは「アメリカ大陸横断駅伝」の選手選考会。
金栗四三氏など3名が、実現すれば世界初となる、走ってのアメリカ大陸横断を企画。さすがに1人では厳しいので、駅伝にしようということになり、参加する選手の選考会として、駅伝大会を計画した。
箱根の山がルートに選ばれたのは、アメリカ横断でのロッキー山脈を想定したからなんだとか。実現しなかったけれど、恐ろしい計画が立てられていた。
ちなみに金栗四三氏は、現在では当たり前になった、マラソンにおける高地トレー二ングを導入した人である。
今回挙げたエピソードは、過酷さのほんの一部分。
先人たちの無茶な企画のおかげで、今の箱根駅伝があるんです。
※他参考文献:「箱根駅伝小史」「駅伝五十三次」「日本列島駅伝史」「陸上競技のルーツをさぐる」「箱根駅伝に賭けた夢」