プロレス人気再燃中の昨今、オールドファンがぶったまげるニュースが飛びんできた。それが【大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントの自伝 映画化決定】
(原作『André the Giant: Closer the Heaven』)
- Andre the Giant: Closer to Heaven (英語) ペーパーバック。
Brandon Easton (著), Denis Medri (イラスト) 出典amazon
このニュースに、多くの人が私と同じ事を思ったと思う。
映画?“やれんのか?!”
身長223cm 体重236kg(足のサイズ38cm)という人類稀に見る大男を演じる役者がどこにいるんだ?
若い頃はまだ細かったが、全盛期の体重236kgという全身フォルムを持ち、しかもプロレスが出来るほどの運動力を持ったホモサピエンスなんてこの世に存在するだろうか?
もしかしてアンドレをCGで作るんじゃないかという気がする。でも絶対にやめて欲しい。CGにすると架空のモンスター扱いになってリアリティがなくなるし、そもそも映画にする意味が無い。“俺は人間だ!”と天国のアンドレが怒って大暴れしそうだ。とにかく絶対に人間の役者を起用して欲しいと願う。
ナマのアンドレ見たことあるかい?
一度だけアンドレ・ザ・ジャイアントのファイトを目の前で見たことがある。
1991年全日本プロレス『世界最強タッグリーグ』最終戦の日本武道館大会をリングサイドで観戦した。選手入場で花道の奥からのっしのっしと歩いてくる大男を間近で見て、口をあんぐりと開け目を丸くした。腕も足も胴もとてつもなく太く、顔が普通の人の3倍くらいでかい。リアルな怪物だった。その後ろからジャイアント馬場が歩いてきたが、身長209cm 体重135kgの馬場が貧相に見えたくらいだ。
――――― アンドレは圧巻だった
たぶん、今後死ぬまでアンドレ以上の大きさを超える人間を視ることはないだろうと思った。だからせっかく映画にするならば、この衝撃をなんとかしてリアルに伝えて欲しいのだ。
日本に残る伝説バウト3選
どんなに凄いレスラーだったか、実際の映像はここに載せられないが、当時を知るファンなら誰もが知っているであろうアンドレ名勝負の幾つかを紹介する。
1981年9月23日 田園コロシアム
アンドレ・ザ・ジャイントVSスタン・ハンセン
これが日本で行われた外国人対決ベストバウトだと言う人も多い。私もそう思う。これは全盛期の両者がガチで倒しに行っていたと思う。
一度は両者リングアウトで決着をみるが、2人の意気込みと観客の“延長”コールに押され再度無制限一本勝負でゴングが鳴らされるという異様な試合となる。
私の主観だが、当時アンドレから3カウントフォールを取れる技はハンセンのウエスタンラリアートかアントニオ猪木の延髄斬りしか考えられなかった。ファンはその瞬間を見たかったのだ。
そしてハンセンはラリアートを一発お見舞いする。
そのラリアートは今までと違い、体を浴びせ、全体重を左腕に乗せたような渾身の一発だった。ハンセンはいつものラリアートだとアンドレの巨体を倒せないと思ったのであろう。あのアンドレもロープまで吹っ飛んでしまうくらいだった。アンドレが受けた一撃必殺攻撃で最も効いた技ではなかっただろうかと思う。試合はアンドレの反則負けで終わる。
1986年4月29日 津市体育会館
アンドレ・ザ・ジャイアントVS前田日明
名勝負というと語弊があるが、未だ謎が多いとされる試合。試合としては不適合な内容だったためかテレビ放送がお蔵入りになった。
前田日明といえば当時キックと関節技を主とした、いわゆるUWFスタイルを新日本のマットに持ち込んだレスラー。王道のプロレスに反するファイトだったため咬み合わない感じがあった。前田は新日にとって脅威であり、目の上のたんこぶだったかもしれない。
そんな時代の寵児とアンドレが急遽シングルマッチで戦うことになったのだ。決定したのは二日前だったという。テレビ放送はされなかったが、ビデオが流出し動画サイトを探すと見つかるだろう。
それを見ると徐々に変な試合だとわかる。
アンドレが自分から攻撃を仕掛けないのである。リング中央に立ったアンドレに前田がキックを連発する。アンドレは「効かない」というポーズ。前田がタックルで倒し、関節技をかけても「効かない」ポーズ。
前田が手を出して組む構えを見せてもアンドレは応じようとしない。アンドレは「普通のプロレスをやろうぜ」と訴えているようだった。
業を煮やした前田はタブーともいうべきヒールホールドや膝への前蹴りを繰り出す。ポーカーフェイスのアンドレだったが、たぶん相当効いていたと思う。
実はアンドレも座った状態の前田の上から全体重をかけて首を壊しにいったり、目潰しやチョークを仕掛けるなどしたりしていた。つまりタブー合戦になっていた。
雰囲気を察した猪木が試合途中にリングインし、“なんだこの試合?”みたいなクレームを付けることに。
最後はアンドレがリングに仰向けになって「さあ来いよ、やってみろよ」といわんばかりに挑発。これが戦意喪失とみなされ無効試合となった。
この試合については、「新日がアンドレを使って前田を潰そうとした」「アンドレ自らがセメントマッチにした」と様々な説が飛び交っているが確実な真相は闇のままだ。
1986年6月17日 愛知県体育館
アントニオ猪木VSアンドレ・ザ・ジャイアント
デビューから22年、ピンフォール、ギブアップによる負けがなかったアンドレが初めてタップした試合である。負けた試合を取り上げるのは少し気が引けるけれど、何しろ体重230キロ以上の巨体をボディスラムで投げただけでもニュースになるほどだった男だ。(ちなみに日本人では、ストロング小林、アントニオ猪木、長州力の3人だけ)
猪木は延髄斬りでうつ伏せに倒れたアンドレの左腕を持ち背中側に反らせて抱え肩の上に座り、「肩固め」でギブアップ勝ちを納めた。後にも先にもアンドレが完敗したのはこの試合だけである。
大巨人伝説アンドレ・ザ・ジャイアント
出典 大巨人伝説アンドレ・ザ・ジャイアント ビデオ・パック・ニッポン チャンネルYouTubeより
在りし日のアンドレ・ザ・ジャイアントの勇姿をぜひともDVDなどで見て欲しい。そして、この男の半生が映画になるところ想像して欲しい……
いや、私には今のところ想像ができない。だからきっと想像を超える映画になるのではないか?!と期待している。アンドレ役の人間が見つかることを祈って。
アンドレ・ザ・ジャイアント略歴
1946年5月19日、フランス・グルノーブル生まれ。本名はアンドレ・レネ・ロシモフ。“先端巨大症”という成長ホルモン分泌腺細胞の異常による病気で体全体が肥大化。
1964年フランスでデビューとされている。
1973年アンドレ・ザ・ジャイアントに改名しアメリカを拠点に活躍。名立たる人気実力レスラーと戦い、年間300試合したこともあった。ベビーフェイス(善玉)で人気者となり、子どもを含め多くのファンから愛される。
1974年には年俸世界一(40万ドル。当時1億2千万円)レスラーとしてギネスブックにも載った。
日本での活躍
1974年から度々、新日本プロレスに登場。古舘伊知郎アナの「人間山脈」「一人民族大移動」という名キャッチフレーズも生まれる。
米とは違い、新日本プロレスではヒール(悪役)で日本人嫌いを貫き、ファンからのサインやインタビューもあまり応じなかった。アンドレは「日本人の黒い瞳が嫌いだ」等と言っていたが、実際は悪役に徹していたのかも。真相はわからず。
1990年、全日本プロレスへ移籍。ジャイアント馬場と大巨人コンビを組んで活躍。馬場とタッグを組んだことからヒールではなくベビーフェイスへ。一転してファンに笑顔まで見せるようになった。
80年代以降は、体の節々の痛み、特にヒザ痛に悩まされていたという。全日本時代は晩年で、真剣勝負というよりリングに姿を見せるだけでファンに喜ばれた。
1992年引退。
1993年1月27日、父親の葬儀へ出席するために帰国したパリのホテルで急性心不全のため急死。若い頃から大好きだったビールやワインの飲み過ぎでいくつかの内蔵病を抱えていたことが原因と思われる。享年46歳。
< 取材・文 / 放送作家 石原ヒサトシ >