
1950年代から続いてきた日本型雇用が大きな転換点を迎え「人」をコストではなく資本としてどう活かすかが、企業価値を左右する時代になった。上場企業には人的資本の情報開示が義務化され、経営トップが「人的資本経営」を掲げるケースも珍しくない。一方で、スローガンは掲げながら、現場では「何から手をつければよいのか分からない」「データはあるのに活用しきれていない」という声も多い。
MS&ADインターリスク総研が、従業員100名以上の企業の人事担当者・意思決定者1,241人を対象に実施した「人的資本経営に関する実態調査」は、そうした日本企業の現在地を可視化したものだ。監修を務めたのが、慶應義塾大学大学院・岩本隆氏。調査では、約9割の企業が人事データを保有している一方で、分析・活用まで進めている企業は4割程度にとどまり、PDCAサイクルの中でも「目標の定量化」と「施策の効果検証」に課題が集中している実態が明らかになった。
さらに岩本氏は、AIやピープルアナリティクスの進展を踏まえ「分散した人材データを統合し、経営判断と結びつける基盤」として、PDP(People Data Platform)の重要性を強調する。人的資本経営のかけ声倒れを防ぎ、企業の変革につなげるために、今、人事と経営には何が求められているのか。今回の調査結果とPDPのコンセプトを軸に、岩本氏の見解をひもといていく。
「データはあるが、活かしきれていない」日本企業の現在地

今回の実態調査では、まず企業の人材データの整備状況と人的資本経営のPDCAサイクルの回り方を確認している。その結果、「人的資本に関するデータをすべて、あるいは一部の領域で保有している」と回答した企業は87.9%に達し、多くの企業で人材情報そのものは整いつつあることがわかった。
しかし「保有しているデータを分析などに活用している」と答えた企業は40.3%にとどまり、半数以上は「データはあるが、使える状態になっていない」という実情が浮かび上がった。PDCAの各フェーズを見ても「人事施策の推進(Do)」「効果検証に基づく見直し(Act)」に比べ、「目標の設定(定量化=Plan)」と「施策の効果検証(Check)」の取り組みが遅れていることが明らかになっている。
岩本氏は、この数字の背景について次のように指摘する。
「今回の調査は、ランダムサンプリングとはいえ、こうした調査に回答する企業は、人的資本経営に比較的熱心な企業が多いと考えられます。その熱心な層の中でさえ、データを分析・活用できているのは4割程度にとどまっているのが現状です」
人的資本経営に真剣に取り組む企業であっても、「定量的な目標設定」と「データにもとづく効果検証」をやり切れているケースは少ない。これは、単に人材データの有無だけでなく、データの“量と質”という、より根源的な課題に直結している。
人材データは「幅が広い」 エビデンス構築に時間がかかる理由
岩本氏は、人材データの扱いの難しさを語る際、プロスポーツの世界を例に挙げる。
「人材データは、とにかく幅が広いんです。プロスポーツでは、10年ほど前の時点で、1万項目ものパラメーターを分析しているという話もありました。企業ビジネスで、そこまでのパラメーターを扱うのは現実的ではなく、数百項目程度が限界でしょうが、それでも膨大なデータ量です。データを蓄積し、実績を重ねていかなければエビデンスはなかなか見えてきません。データを貯め始めたフェーズでは、どうしても『効果が出ていると言い切れるほどの証拠がない』状態が続きます」

人的資本経営は、短期間で成果が数字に現れる性質のものではない。特に人材育成やエンゲージメント、ダイバーシティ推進といったテーマでは、施策から成果が見えるまでに時間がかかり、その過程を定量的に追いかけるためのデータ基盤づくりにも相応の時間とコストがかかる。そのため「人的資本への投資」と「経営成果」の間を、データにもとづくストーリーでつなぐことが難しく、結果として「取り組んではいるが、効果を説明しきれない」「次の打ち手につなげにくい」という悩みにつながっている。
今回の調査でも、データ活用が進んでいる企業ほど「経営戦略の実現や財務目標の達成」「従業員の満足度や生産性向上」「ブランド価値の向上」など、人的資本経営の効果を実感している割合が高いことが示されている。裏を返せば「データの整備・活用」に踏み込めていない企業は、人的資本経営の成果も見えにくいままになってしまう。
「ピープルアナリティクス」と「PDP」が担う役割
そこで鍵となるのが、ピープルアナリティクスとPDP(People Data Platform)である。ピープルアナリティクスとは、従業員の労働時間、コミュニケーションログ、エンゲージメントサーベイ、人事評価など、多様な人材データを収集・分析し、人材配置や育成、評価、離職予測といった意思決定を“勘と経験”から“データドリブン”へと変えていく手法だ。
しかし、現実には人事データは給与・勤怠・タレントマネジメントシステムなどに分散しており、「情報を連携する仕組みの不足」や「データ更新体制の未整備」がボトルネックになっている企業も多い。そうしたギャップを埋める基盤として注目されているのが、PDPである。
PDPは、学歴・職歴・スキル・性格特性・エンゲージメント・メンタルヘルス・キャリア志向など、一人ひとりに紐づく多様な人材データを統合し、見える化・分析できるプラットフォームだ。従来の人事給与・勤怠管理といった「業務管理」の延長ではなく、「個人と組織の成長を加速させるための基盤」として設計されている点に特徴がある。
岩本氏は、PDPの形態について次のように説明する。「PDPにもいろいろな形があります。1つのタレントマネジメントベンダーが、自社のクライアントの人事データを1つのプラットフォームにまとめていくパターンもあれば、海外では複数ベンダーのシステムからデータを集約し、業界を超えて分析できるようなプラットフォームも存在します。前者も後者も、広い意味ではピープルデータプラットフォームと呼べるでしょう」

日本では現在、経済産業省が「デジタルスキルプラットフォーム」の構築を進めている。国レベルの取り組みではスキルデータに特化する一方で、企業が自社で構築するPDPでは、スキルに加え、評価やエンゲージメントなど多様なデータを統合することが可能という。
「ピープルアナリティクスの組織を立ち上げる企業は、ここ数年で非常に増えています。年功序列で『社長に近い人が次の社長になる』という発想ではなく、採用・配置・育成・報酬設計を、データにもとづいて体系的に最適化していく。その際に、PDPはピープルアナリティクスの道具として機能します。特に、自社の過去データだけではなく、業界を超えたベンチマークデータも参考にしながら、自社の人材ポートフォリオをどう変えていくかを考えるためには、ベンダーや業界を超えたPDPが重要な役割を果たすと考えています」
生成AIの進化で「技術的なハードル」は下がる
PDPやピープルアナリティクスを支える技術として、生成AIの存在も無視できない。「生成AIの進化は非常に速く、技術的には本当にいろいろなことができるようになってきています。問いを投げるだけで、誰でも使えるレベルになりつつある。これからは、技術そのものよりも『どのようなデータを、どのような質で、どれだけ蓄積できるか』が勝負どころになっていきます」
すでに海外では、PDPとAIを組み合わせ、入社後のパフォーマンス予測や離職リスクの検知、ハイパフォーマーの分析、メンタルヘルスの兆候把握、人材配置のマッチングなど、多岐にわたるユースケースが実用化されている。日本企業でも、AIや機械学習そのものの導入ハードルは急速に下がっている。ただし、データの偏りや質の問題を放置したままアルゴリズムを導入しても、バイアスを助長したり、従業員の納得感を損なったりするリスクがある。
だからこそ、岩本氏は「データの“量と質”を高めるための地道な取り組み」と、「それを経営の意思決定にどうつなげるか」という設計の重要性を繰り返し強調する。PDPは、その両者をつなぐ橋として機能しうるが、その前提として、人事部門と経営陣が「何を測り・何を変えたいのか」を明確にする必要がある。

「人的資本経営」を絵に描いた餅で終わらせないために
では、日本企業がこれから人的資本経営の質を高めていくために、どこから着手すべきなのか。
今回の調査結果から見えてくるのは、「まずはデータを蓄積する段階」を早く抜け出し、「目標の定量化」と「効果検証」を伴うPDCAサイクルへと移行する必要性である。
具体的には、次のようなステップが考えられる。
人材戦略と経営戦略の接続
どのような人材ポートフォリオを目指すのか、経営の方向性と紐づけて言語化する。
KPIの仮置きとデータ収集の設計
エンゲージメントスコアや離職率、育成投資とパフォーマンスの関係など、仮説ベースでよいのでKPIを置き、それを測るためのデータ収集プロセスを設計する。
分散した人事データの統合
給与・勤怠・評価・タレントマネジメントなど、バラバラに管理されているデータを統合し、可視化できる環境を整える(PDP導入・構築を含む)。
ピープルアナリティクス組織の立ち上げ
データサイエンスと人事実務の両方を理解するメンバーを中心に、分析と示唆の抽出を担うチームをつくる。
経営層との対話と“ストーリーテリング”
データから得られた示唆を、財務指標や事業戦略と紐づけて分かりやすく伝え、人的資本投資がもたらす価値を“物語”として共有する。
こうした取り組みを通じて初めて「人的資本経営」はスローガンではなく、企業の競争優位の源泉として機能し始める。
岩本氏は、人的資本経営の意義を「人材情報を整え、個人と組織双方の成長を加速させるための仕組みづくり」に見出している。データの整備と活用、そしてそれを支えるPDPやピープルアナリティクスは、そのためのインフラに過ぎない。重要なのは、データの背後にいる一人ひとりの従業員のキャリアと、企業が描く未来像をどう結びつけるかという視点だ。
人的資本への投資が「コスト削減の一環」でも「開示義務への対応」でもなく、企業と従業員がともに成長するための戦略的な選択であることを、データとストーリーの両面から語り切れるか。今回の実態調査とPDPの議論は、日本企業にその問いを突きつけている。







