るろうに剣心 緋村のモデルにも!? 幕末の四大人斬りとは?

2016/06/20
南城与右衛門

小説やゲームなど、様々な創作物で登場する「人斬り」。


あるものは思想のもと、あるものは命令に従う殺戮マシーンとして、暗殺する剣客「人斬り」。中でも畏怖されるほど腕がたち、斬った記録さえ闇に葬られたのが「幕末の四大人斬り」。


今回は時代の過渡期に刀とともに生きた幕末の四大人斬りを紹介します。

天誅の名人 岡田以蔵

四大人斬りで一番メジャーだと思われる土佐藩の岡田以蔵。現代では彼を取り上げる創作物も多く、演じる役者は長瀬智也や佐藤健など二枚目。しかし実際には出っ歯だったそうです。


さて、鏡心明智流剣術の使い手の以蔵は、土佐勤王党の依頼のもと井上佐市郎をはじめ、次々と要人を暗殺。また一時は坂本龍馬の紹介で勝海舟の護衛に就き刺客から救ったことも。

しかし土佐勤王党が衰退すると捕まり、拷問を受けると関与した暗殺などを自白。最期は打ち首・獄門(さらし首)となり、27歳という短い命を散らせました。


公式な記録として以蔵が手にかけた人数9人。記録に残らない暗殺も多くあったといいます。また、「人斬り以蔵」の異名は後年の創作物により生まれたものですが、汚れ仕事を数々引き受け、「天誅の名人」と恐れられたのは事実なようです。

以蔵とともに暗躍 田中新兵衛

剣術の流派などは不明ですが、幼少期から武芸に励んでいたという薩摩藩士の田中新兵衛。


安政の大獄で尊王攘夷派の志士や活動家を数多く検挙・捕縛した島田左近を付け狙い京都で斬殺。これが京での天誅の始まりと言われています。その後、以蔵らと徒党を組み集団で次々と暗殺を実行。姉小路公知暗殺事件では現場に残された物証から下手人の一人として容疑がかけられ逮捕。尋問の際、隙をつき脇差を抜いて切腹し果てました。23歳でした。

華麗な出世を遂げた剣客 中村半次郎

幕末、一介の剣客から明治政府の陸軍少将までのぼりつめた異色の人物、薩摩藩士の中村半次郎。
とはいってもいわゆる人斬りの記録は少なく、軍学者・赤松小三郎を斬ったというものが残るのみ。
しかし剣の腕は確かだったようで、「雨粒が軒から地面に落ちるまで三度抜刀できた」や新選組から「半次郎に関わるな」と言わしめるなどの逸話が残っています。
そんな半次郎は西郷隆盛に見出され剣客から軍人となりますが、西郷が下野すると付き従い、西南戦争にも反乱軍として従軍。西郷の自決を見届け、半次郎の最期は額に銃弾を受け戦死しました。38歳でした。

緋村剣心のモデル 河上彦斎

普段は礼儀正しく温和だったそうですが、一方で平気で人を斬る残忍性を持っていたという肥後藩士の河上彦斎。


その剣術は我流で片手抜刀の達人。右足を前に出し折り、左足を後ろに伸ばして膝を地面すれすれにつけ、右手一本で逆袈裟の斬り上げが得意だったそう。そんな怪物のような剣客ですが見た目は150センチほどで色白、一見女性のようだったといいます。このようなイメージから「るろうに剣心」の剣心のモデルになった剣客。

 

彦斎も人斬りの記録がほとんどなく、開国論者の佐久間象山を暗殺したもののみ。強硬な攘夷論者で、これを疎まれ明治に入ると様々な暗殺事件に関わったとして逮捕、斬首されました。38歳でした。


彦斎の逸話をもうひとつ。酒場で仲間がする横暴な幕府の役人の話を黙って聞いていた彦斎。中座し、帰って来るとその役人の血だらけの頭を抱えており、飲み直したんだとか。これにより仲間内から気味悪がられていたそうです。

 

いずれも儚く散った四大人斬りたち。その不器用な生き方や刀に生涯をささげた一途さ、矜持は魅力を感じます。殺人は殺人なので肯定はしませんが、幕末から明治時代へ移り変わる激動の瞬間に彼らが関わったことはリスペクトしなければいけません。

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"情報番組や誰も知らない深夜番組、ラジオなどを構成したり、ソーシャルゲームのシナリオを書いたりする、いわゆる駄放送作家。友達はPC、恋人は二次元、恩師はあらゆる漫画、といった充実した人生継続中"

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